あまりよく知らなかったけど、おもしろかったです。
博物学的な観察で、小さな花を城館の壁に大きく描くというのは、20世紀初頭では画期的なテーマだったかも。
城館の大食堂を覆う壁画を依頼したドムシー男爵はいいセンス。
謎めいてファンタジックで心地よく、ちょっとサイケデリックな印象。
なぜかサイ・トゥオンブリーを思い出す感じ。
月一で執筆している宮坂ネオンです。今回は色覚について話したいと思います。
下記はマンセル色相環です。
下の色彩は一般的な見え方であっても、見えて当たり前の色彩、波長ではないかもしれません。
日本人の第1型と2型と合わせて色覚異常が発現される割合は、男性に5%、女性に0.2%と言われているそうです。[1*]
[1*]の眼科講座によると1型の人は赤を感じにくく、2型は緑を灰色に感じやすいようです。
それでは我々が普段見ざるを得ないような「信号」は一体どのように視認しているのでしょう。色覚異常が因果した死亡事故はデータがあまり見られないものの、とあるクリニックの患者さん2237人のうち、152例の死因が交通事故によるもので、そのうちの
6.8%が色覚異常を疑われる人の事故であったというデータが残されています。
[2*]
色覚異常の方のための専用の信号が必要ということではないかと思い調べていると、どうやら2011年に色覚異常者に優しいデザインの信号機がグッドデザイン賞を受賞していたようです。[3*]
絵に関してはどうでしょうか。
遡る事30年以上前、彫刻家として知られている高村光太郎氏は、「緑の太陽」という芸術論を残しています。以下抜粋。[4*]
僕は芸術界の絶対の自由フライハイトを求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。PERSOENLICHKEIT そのものはそのままに研究もし鑑賞もして、あまり多くの擬議を入れたくないのである。僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何に取扱っているかを SCHAETZEN したいのである。その人がそれを赤と見る事については、僕は更に苦情を言いたくないのである。むしろ、自分と異なった自然の観かたのあるのを ANGENEHME UEBERFALL(快い驚き)として、如何ほどまでにその人が自然の核心を窺い得たか、如何ほどまでにその人の GEFUEHL(感覚、感情)が充実しているか、の方を考えて見たいのである。
普段自分が当たり前に見ている、あるいは見えている景色が
人それぞれに見ている色が違う、使う色が違うだけで、絵一つにしても
第三者に理解されないというきらいがあるようです。たとえばそれは表現と再現の、再現性を求められる場合の美術大学のデッサンなどの実技においては、
一体どういうことなのでしょう。
参考データ
[1*]
滋賀医科大学 眼科講座より 年数、執筆者不明
http://www.shiga-med.ac.jp/~hqophth/farbe/idenn.html
[2*]
交通事故と色覚異常の因果関係より 年数不明、cb49氏
http://www.geocities.jp/ishiharatheo/jiko.html
[3*]
GOOD DESIGN AWARD 2011
道路信号機 [色覚異常者に優しいユニバーサルデザインLED信号灯]
http://www.g-mark.org/award/describe/37952
[4*]高村光太郎 緑の太陽
底本:「日本の名随筆7 色」作品社
1983(昭和58)年5月25日第1刷発行
1999(平成11)年2月25日第20刷発行
底本の親本:「美について」筑摩書房
1967(昭和42)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル
https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46507_25640.html
ご無沙汰しております。月1で執筆しているMiyasaka Neonです。今回のテーマは私の周りの芸術家を星と硝子になぞらえた狙いがあります。来月は自身の展示が長野であり、
展示制作の激しい渦に雁字搦めにされる前に、少し忘れないでいたいことがあります。
テクノロジーが芸術作品に介在されるような時代性および、デジタルかつナラティブな表現の発露が泡のように沸き立っては出現と消失を連鎖させながらも、その中で大きな変化をせず定位置に存在しつづける星のような芸術家がいます。あるいは触れてしまったら割れてしまうような硝子のように繊細な芸術家がいることを、忘れないようここに思い出してみたいと思います。
以前知人に借りた作家の作品集に「制作は落としてきた想いの1つ1つを拾い上げるような事」と言及された警策の一節がありました。この言葉はいずれ私の記憶から消えることのない光や、あたたかい優しい膜となって光ったのです。
彼らのような芸術家が精神を鋭利な鉛筆のように削って制作してきたものは、思わず感嘆してしまうほど精彩に富んだ作品だと誰もが思うであろう作品でした。
全ての人が同じ境地境遇から作品を生み出したり、何かを述べているわけではないと思いながらも、その誠実な制作への姿勢は、誰かが拾い上げなければ一生、闇の中にいただろうと思うと同時に、私の中では放っておけなかった生命の留まる作品でした。
人1人の生んだ作品があらゆる記憶や感覚、および素材への知をベースに作られるものであることが事実であれば、自分一人で産まれてこられないような出来事を芸術論にさえ感じてしまうことは否定できません。
私が今20代なのですが、私が年を取った時、当然ながら彼らはもうこの世にいないでしょう。そして、自分もまたいつか消えてしまう存在です。
見える芸術がある裏側で、見られない作家が泣いているのかもしれません。
Miyasaka Neonです。今日は「声帯模写」について描いてみたいと思います。私が生まれるかなり前から声帯模写で有名な江戸家猫八さんという方がいたようです。
江戸家猫八さんとは、動物の鳴きまねを声帯模写する物真似師の名称で、2代目を除いて初代の直系で芸が受け継がれているとのことです。[1*]
初代は慶應4年~昭和7年までご健在だったそう。[2*]
現代でも声を扱った音楽家はいるようです。私が知る限りではハチスノイトさんが気になり、六本木のライブに行きました。声がとても美しく、また種類が多い事を記憶しています。
声や音は不思議です。目をつむると風景や風景画を見ているような気がします。よく言われる、貝殻に耳を傾けると海の音がするという名説も、実際のところは海の音ではなく、自分の血流や、蝸牛の中の液体の音という説があるようですが、
最初に貝を耳に当てた人が、実際に波の音に包まれるような感覚に陥ったのでしょうか。
視えてくるような音楽を作る音楽家がいるのであれば、
聞こえてくるような絵画を創造する画家がいてもおかしくない中、
どちらも共感覚があるのではないかと睨むところです。
[参考情報]
[1]江戸家猫八 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%AE%B6%E7%8C%AB%E5%85%AB
[2]江戸家猫八(初代)wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%AE%B6%E7%8C%AB%E5%85%AB_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
中国のアーティスト Cao Shu さんの作品。
絵画スタイルの正しい解釈なのかどうかわかりませんが、よくこんなに描き分けられるものです。
どうして絵画はこれほど多様なのか・・・と考えるのも、またおもしろいところ。
元記事はこちら
One Minute Art History: A Hand-Drawn Animation in Myriad Historical Art Styles >>
月に一度執筆している、Miyasaka Neonです。
本当に美しいものを作るのは引き算をして作品を作る事という概念、それは孤高とも言えるでしょうか。引き算とは、作品に肉付けしてしまうような面白さ、発想、可愛さなどを極力
マイナスしていく精神力を指しているのですが、数年前の展覧会の情報で、個人的に引き算だと感じた作家に関連するフライヤーを2枚挙げてみようと思います。
(1)中谷宇吉郎さんの雪の研究
1900年に生まれ1962年に生涯の幕を閉じた物理学者で、
世界で初となる人工雪の制作に成功した研究者。「雪」に精通していた事の一つとして
「雪は天から送られた手紙」という言葉を残しています。石川県に中谷さんの科学館もあり、娘にあたる方は中谷芙二子さん。彼女は霧の芸術家として知られていて
今年の3月4日まで銀座エルメスフォーラムで展示をしているようです。
(2)竹岡雄二さんの台座
1946年生まれの現代美術家。台座の作品で知られています。
作品を展示する作品の方ではなく、作品を置く事に使うような
台座に焦点をあて、展示しているようです。京都市立芸大、彫刻科を経て
ブレーメン大学教授。
彼らが引き算かどうか、本当の所は分からないけれど、引き算が得意な芸術家とサスティナブルであることに関わりはなくとも、美しさの源泉はストイックな精神力にあるのではと目を光らせています。
こうしたら面白い、ああしたら良いかもしれない、発想という足し算に埋め尽くされる、簡単にできる事とは真逆で、あれもこれも発想通り、理想通りではなかったから、企んだ複雑な邪念、概念、面白さ、可愛さ、肉付けされる要素をなるべく引いて、たった一つ残った、たった1つの風景は、作り手に何かを問いかけいるのではないでしょうか。
追伸
いつも拙い長文を拝読くださり、管理人さん、見てくださっている方に感謝申し上げます。
ありがとうございます。
参考情報
[1]各Wikipedia
[2]中谷宇吉郎、雪の科学館
[3]銀座エルメス
[4]ワコウワークスオブアート
Harmonograph(ハーモノグラフ)という言葉を目にしたことはあるだろうか。19世紀ヨーロッパで流行したという説があるこちらのアートワークは、2つの振動の調和を視覚化可能にする装置である。
(1)振り子を机に取り付けて描画するパターン
(2)ターンテーブルに交差型のアームを取り付けて、その先にペンを取り付けるパターン
(3)Javaで描画するパターン
(4)木製の専用キットを組み立てて描画するパターン
等々に分かれるが、2000年代の日本ではICCで《ハーモノグラフ 音の視覚化,19世紀の科学エンターテインメント》 [2006/2010]
“Harmonograph Visualization of Musical Intervals, Entertainment in the 19th Century”
という展示が開かれていた。
Javaで描画できるサイトで記憶に新しいのはHarmonograph.jsだろう。
著書ではアンソニー・アシュトン著「ハーモノグラフ: 和音が織りなす美しい図像 (アルケミスト双書) 」に詳しく書かれていて、執筆者の私も時折目を通す。
全く似ているものではSpirograph(スピログラフ)、リサジュー図形が顕著だが、
とくにスピログラフにおいては紙と鉛筆の他にも回転する鏡とレーザーでも制作できる。
日本では珍しいものであるが、海外では動画サイトでの既出率の高さ見ると分かるように珍しくないものになりつつある。
何に役に立つわけでもないツールのようにも思えるが、美しい図像は等身大の自分の生まれるずっと前からあった。「突拍子もなく生まれるもの」というのは、ただ1つの人間のアイデアを除いては考えられないような気さえする。
【参考文献・情報】
・アンソニー・アシュトン著「 ハーモノグラフ: 和音が織りなす美しい図像 (アルケミスト双書) 」
・ICCのアーカイブ《ハーモノグラフ 音の視覚化,19世紀の科学エンターテインメント》 [2006/2010]
“Harmonograph Visualization of Musical Intervals, Entertainment in the 19th Century”
(http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/harmonograph-visualization-of-musical-intervals-entertainment-in-the-19th-century/)
・Harmonograph.js
(http://harmonograph.penguinlab.jp/)
色彩論の入門書では、今や当たり前のようにニュートンやデカルト、ゲーテが話に上がる。
ゲーテはニュートンの光学に異論を唱えつつ、ゲーテ本人も色彩における研究や観察を行っていたものの、彼の同時代の研究者には殆ど相手にされなかったことで知られている。そのゲーテも20世紀に入り再び評価されることになるやいなや、現象学派にはあたらない心理学者からも、その業績を「色彩心理学」の先駆的研究と評価されることになったとされている。
(1*)
画像(2*)
添付画像は美術的にも参考になる色相環図である。
ここ数日、表現のメタファーの研究から少しばかり距離をおいて、色彩の仮説について考えている。現代社会には自然の特有な色の他にも人工物の色彩(街の広告看板など)などと、色がありすぎるような気もするが、もし色彩に満ち溢れた世界が一瞬にして漂白されたら、一体どういった心理状態に陥るだろうということを考えてみる。昔、2004年に製作されたアメリカ映画でメジャーな「Day after tomorrow」というパニック映画があった。ストーリーはご存知の方も多いかもしれないけれど、世界中で雹や、竜巻、スーパーフリーズなどの異常気象が起こって氷河期に突入するという内容だった。(3*)そこで私がストーリーというよりも真っ先に気になったのは色彩だった。断片的かつ脆弱な記憶ではあるのだが、氷河期に突入した朝の風景は、白く凍てついた海がアメリカの都心のビル群を覆っていた。私が今例にあげた物語最後の風景は、なにやらベクシンスキーの1枚の絵画のように美しかったが、物語性を加味していたこともあってか、鳥肌が立つような恐怖を感じた。
世界が氷河期によって機能しなくなる時だけではなく、人間の生涯が最期を迎えた後も、
瞼の裏に残された風景は、あのように空虚な白い漂白された風景なのだろうか。
たとえば毎日が雪の日で空虚で白い漂白された風景が数年、数十年と続いていったら、人は多色に囲まれて生きているという概念を忘れてしまうだろうか。
余談だが、
ホイットリー・ストリーバーとアート・ベルの共著「The Coming Global Superstorm」(1999年)はまだ見ていないが、興味深い。
[参考文献、画像、情報等]
(1*)知覚の哲学 ―ラジオ講演1948年― モーリス・メルロ=ポンティ、第3章知覚的世界の探索―感知される事物―158ページ9行目
(2*)参考画像http://www.huevaluechroma.com/072.phpより
(3*)デイ・アフター・トゥモロー、wikipedia
こちらのページにある プロフィールの作品解説が秀逸だったので見てきました。
アルベルト・ヨナタン「TERRENE」2017年10月7日(土)-11月5日(日) >>
こういうテーマのこういう作品のわりと多くが感傷的、懐古主義的、空想的なイメージがあるのですが、今回の展示作品はそういうのがないのが良かったです。
やや呪術的なイメージも魅力的で、丁寧に手を動かして制作した正直な作品という感じでした。
民芸と呼応しそうなイメージかも。
ほんとにひさしぶりに銀座で展示を見た。
Patrick Tresset というロンドンのアーティストの作品。
Pix2pix という画像生成AIを利用してるそうです。
Patrick Tresset さんの「ETUDES HUMAINES」というロボットでポートレートを描く作品の展示で得られた3500人の21000枚のドローイングをPix2pixに学習させたということでしょうか。
AIを使ってポートレートを描くというプロセスを逆転させてます。すばらしいアイデア。
Patrick Tresset さんの作品を日本でも展示してほしいです。
Pix2pix についてはこちら。
できそうなことはだいたいできる画像生成AI、pix2pixの汎用性に驚く >>
https://wirelesswire.jp/2017/01/58467/
Patrick Tresset さんのサイト>>
http://patricktresset.com/new/
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