ダッジ ラムのトラックのCM。
Kurt Markus 、William Albert Allard などの写真家の作品に、ラジオナレーターPaul Harvey の1978年の有名なナレーションがつけられているそうです。
シンプルで、ロマンチックで、力強いです。
元ネタはコレだそうです。
何が「リアル」なのかっていうのもありますが、そういうことするのもまた “広告” ですかね。
Paul Harvey のナレーションの文章はこちら
美しいイラストのアニメーション。
内容は深刻な問題ですが、見入ってしまうくらい。
制作したのは『This is Studio』
http://thisisstudio.co.uk/
タブレットの出荷台数が PC のそれを上回り、米国では印刷媒体のメディアがウェブメディアに変わろうとしてる昨今、ウェブサイトデザインの5つの指針だそうです。
1. “アプリに似た”ユーザー体験を創造せよ
2. サイト上の雑多な要素を削減せよ
3. サイトをスリム化しスピードアップせよ
4. ソーシャル共有をもっと掘り下げよ
5. 広告体験をコンテンツ体験へと統合せよ
なるほど・・・。
「シンプル」で「ネイティブ」で「レスポンシブ」ってことでしょうか。
メディアサイトや企業サイト なども、いままで蓄積した情報をどうやってリフォームして再利用して価値を生み出すのか・・・考え始めるときかも。
広告ビジュアルを積み上げたようなルックスのサイトは、ホントにもうダメかも。
仕事の帰りにクルマを運転してる。
家に帰って夕食を作ろうと考えるが、冷蔵庫に何が残ってるか思い出せない。
カーナビを利用して
「いま冷蔵庫にあるもので、できそうな料理」
を検索する。
検索結果から夕食の献立を決める。
冷蔵庫のなかのものだけでは足りない食材がリストアップされたので、
買って帰ることにする。
カーナビが、買うべき食材を安売りしてる近くのスーパーマーケットへリルートしてくれる。
(以上、まったく個人的な想像です)
最近、クルマにSiriが搭載されるニュースを聞いて、こんな未来もくるのかな・・・と。
でも、ずっと前からできそうな気がしてるものです。
自分の冷蔵庫の中の食材とスーパーで売ってる食材と作ろうとしてる献立のマッチング(笑)
ひょっとしたら、もっと賢い方法もあるかも。
無料で観れる6分あまりのサイレント短編。
すばらしい。
デザイン批判をするときの視点とか、新しいデザインが受け入れられてゆくプロセスとか・・・そういうことのヒントになるかも。
「スポーツ観戦のようなグラフィックデザイン批評の弊害」で紹介した、Michael Bierutが紹介していた別の記事が興味深かったので、なんとか日本語にしてみました。
文字通りだと「袋叩き」ということで、アメリカの人はだいぶ保守的なんだなー、とも思えますが、よく読むと違う側面が見えてくる感じです。日本の「炎上」とも少し違うようで・・・。
<以下は意訳です・・・(正しくないかも)>
人々に嫌われてカリフォルニア大学の新しいロゴは撤回されました。でも悲しむことではありません。
デザインされたU字型にCのロゴは、ユニコーンのウンコを擦りつけた大きなストラップレスドレスのように見えました。しかしながら、これを大きな騒動にした「憤慨(outrage)」は注目に値するものでした。
『クラウドソーシング』がクラウドで何かを作ることなら、ここには『クラウドスマッシング』とも言える現象が現れています。
2010年のGapロゴ、2012年のオリンピックロゴ、SYFYのブランドアイデンティティ・・・。これらのロゴやリブランディングの何かが暴徒を憤慨させました。
憤慨はどうして起きるのか?「ひとは変化を嫌うから・・・」というのがよくある答えです。しかしAaron Badyの最近のカリフォルニア大学ロゴ騒動についてのエッセイによれば「このような軽蔑的な批判は私たちの悪い癖なだけでなく、私たちは変化を恐れてわけのわからない反応をしている。」だそうです。
よくあることですが、新しいもの(もっと小さなタブレットPC、もっと大きなスクリーンのiPhone、バットマンの新作映画、江南スタイルとか・・・)が好きな人でさえ、変化に対してはそういう反応をします。
人々が嫌うのは、変更の目的が説明されないまま変更を強制されることです。
ここで、ブランドをシンボルとか広告キャンペーンでなく、ロゴに目がついた小さなホムンクルスとして考えてみましょう。彼らは私たちの肩の上にいて、私たちの耳に一日中ささやきます。「おなか空いてるでしょ。サブウェィのフットロングが充たしてくれますよ。」「Macが遅でしょ。新しいMacを買うとハッピーですよ。」なんてストーリーを話します。
これらのストーリーでは、あなたが主人公で、ブランドはあなたをサポートするキャラクターです。
人々はこういうストーリーを変えられて台無しにされるのを嫌います。
今後も続くことを期待していて、その期待していた連続性が裏切られると(ディランがエレキに転向したり、いいTVドラマのシーズン2とか・・・)外的な差し障りよりも、内面に不安と怒りを感じます。
それが些細なことであったとしても、ずっとわだかまります。
Logo outrage(ロゴについての憤慨)は、ブランド・ストーリーがダサくなった瞬間におこります。(たとえば、ルーカスがオリジナルのスターウォーズに3DCGを導入したときのように)それは記憶を台無しにして、未来を台無しにすることになるからです。(未来の計画には過去の記憶が必要ですから。)もう一度スターウォーズを見ても最初の楽しさは損なわれています。学校にユニコーンのウンコがついてたら、カリフォルニア大学サンタクルーズ校同窓会に出席するのも同じように楽しさが損なわれます。
これは、色やカタチが変わったからではなく、期待していた連続性が奪われたからです。「もう怒った! グラデーションなんか金輪際いらん!!」と叫びたくなるのも当然です。
こういう「バートルビーイズム」(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/バートルビー)は最近のことです。私の父がテレビでスペリーとバローズがユニシスを作るために合併したのを見たとき。「なんてこった」「最悪だ!」と言いました。なぜ彼がオフィスオートメーションの合併にそのように立腹したかわかりません。彼は英語の先生で、私はまだ12歳でした。
いまではインターネットのおかげで、同じ意見を持つ人達をみつけて一人でイライラすることはありません。「これ嫌いな人いる?」と質問すると、即答が返ってきて、ダサいブランディングで人生をメチャメチャにされると感じてる仲間をお互いに見つけて、懐かしのロゴを悼むのです。
元記事はこちら
http://nymag.com/news/intelligencer/logo-rebranding-2012-12/
ちょっとおどろいた。
3Dプリンタの急速な普及は、歴史的な転換点になりそうな気がしてきた。
モノのデザイン、モノの生産・流通、モノと人との関係を大きく変えてゆくのかも。
そこが浮上するんだー(笑)
なんだか昭和特撮みたい・・・。
ガッチャマンでこんなのあったような。
絵画TVの岡崎乾二郎さんの対談を見ていて「そうだったのか」と思ったので・・・
聖書にある、キリストが姦淫の罪の女を救う物語・・・
http://ixthus.exblog.jp/6436388/
そのなかでキリストは地面に何かを描いていたとあります。
文字を書いていたのか、絵を描いていたのか、よくわかりませんが・・・ここでは絵(ドローイング)を描いていたとして・・・勝手にイメージを膨らましてみます。
姦淫の女の罪を責めるパリサイ人はモーゼの律法に従って、この女を石打ちの刑にすることをイエスに詰め寄り、イエスの答えを試します。
このとき、パリサイ人は、モーゼという権威による体制(システム)の論理で思考・行動しています。
ここでイエスは地面に絵を描いています。(たしかに奇妙です)
「何を描いていたのか」はわかりません。
おそらく「何を描いたか」は重要ではなく「何かを描いていた」ことが重要なのでしょう。
ドローイングのような「描く行為」は、自身と向き合うことであり、内面の発露であり、瞑想のようなものかもしれません。そこにはひとりの人間の心、精神、魂、感情・・・などの「私的領域」が表出します。
パリサイ人はイエスを陥れようと、イエスに答えを迫ります。
イエスの周囲にいた人々は、体制(システム)の論理で思考して、イエスの答えを待ち、イエスに人々が注目します。
ここで人々は「何かを描いているイエス」と「イエスが描いてる何か」を「鑑賞」することになり、「私的領域」の存在を想起させられることになります。
こうして、人々の意識では、体制(システム)の思考と「私的領域」のふたつが並立します。
そしてイエスは、
『あなたがたうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい。』
と言い、人々に「私的領域」での対応を迫ります。
人々はそれを聞いて、年長者からひとりひとり立ち去って、最後はイエスとその女だけになります。
勘違いもあるかもしれませんが、アートと社会についての、興味深い解釈だと感じました。
本当はもっと深い解釈があるのかもしれませんが・・・。
(宗教の教義の知識不足は、どうかご容赦下さい。)
© 2025 DESIGNERS UNION | ご自由に投稿できます。 お気軽にご利用ください。