今回は誤解や間違いを恐れずに、とにかく書いてみたいと思います。
『だれでも簡単にデザインできる』という売り文句のツールやサービスがたくさんあります。
「だれでもデザイナー」「だれでもアーティスト」というコンセプトは、ブルーノ・ムナーリやヨーゼフ・ボイスの発言から広がっていったように思います。
それは、当時の時代背景のなかでデザインやアートが社会と関わっていくひとつのカタチを提示する発言だったのでしょう。
だれもがピカソやコルビジェになれることを提示したわけではありません(笑)
ところが、基礎教育(義務教育)のなかの美術教育では「だれでもアーティスト」の「だれでも」は「どの子でも」と置き換えらて「素晴らしい可能性」のシンボルのようになっていった気がします。
そうなった理由は「教えやすい」からではないでしょうか?
美術芸術に真剣な興味を持ち得ない先生が子供に美術教育をしなくてはならないときに「だれでもアーティスト」というコンセプトは便利に使われたではないでしょうか。
先生自身が理解できないものを子供に教えるときに、伴うはずの責任や理論を放棄できる口実にできたからではないでしょうか。
「たかが美術だから、それでいい」とされていたのかもしれません。
子供の頃、そういった美術教育を受て、その後自分から進んで美術を学ぶことのなかった人のセルフ・イメージでも『だれでもデザイナー、だれでもアーティスト』が『自分もデザイナー、自分もアーティスト』となってないでしょうか?
味覚もそうですが、視覚、触覚などのすべての感覚は成長とともに変化して成熟して完成されていきます。
子供の頃の放任の美術教育で無責任に肯定された感覚のまま大人になってしまっていないでしょうか?
または『だれでも簡単に』という言葉を『自分でも』と受け取るように、知らないうちに “刷り込まれて” いないでしょうか。
『だれでも簡単に』という言葉の無責任さを承知しておく必要があるのかもしれません。